今津地域の歴史・魅力1

酒のまちとして栄えた港“今津”

今津は江戸幕府の天領として農地が広がる地域でありながら、港町として商業が発展した地域でした。早くから町として発達し、農地が広がり六甲山系より良質な水が流れ出ていたため、江戸時代には酒造りが盛んでした。江戸時代中期以降、航海技術の向上による海路運送が発達したことにより、今津地域は更に酒造りが盛んになり、大坂屋(現:大関)等の名のある造り酒屋がたくさんうまれました。


今津港

今津港

~今津の玄関口、歴史はここから始まった~

           

今津は、1793年(寛政5年)の築港以前から漁業が盛んで、酒の積み出しも行われていました。
築港と言っても新しく港を開いたという意味ではなく、従来の港を改良したものでした。
今津港は、今も昔も、報徳学園のグラウンド付近にあった鯨池を水源に持つ新川の河口を利用したものでした。
築港以前は、現在の直角に曲がって、海に注ぎ込む形ではなく、新川はまっすぐ西に進み、一旦東川に合流して海につながっていました。
今津港築港により、遠回りで不便だった航路を、最短距離で海に出られるように水路を開削したものが現在の形で残っています。更に、その水路が海に出る部分に、築港17年後の1810年(文化7年)に建てられたのが大関今津灯台です。


樽廻船

江戸っ子の粋な気風から生まれたレース「新酒番船」

江戸時代、江戸のまちでは灘五郷や伊丹、池田の上方のお酒が好まれました。とりわけその年の新酒が珍重され、価格も高騰するとあって、酒造者は競って早く送ろうとしました。
そこで、上方の新酒を積んだ船を一箇所に集め、一斉に江戸に向けて出発して速さを競うことにしました。そして、その『新酒番船』レースのスタート地点に選ばれたのが西宮の沖合でした。最初に到着した船は「愡(そう)一番」と呼ばれ、船主や船員などはもてはやされたそうです。
「新酒番船」は、いわゆる帆船レースですが、現在のレースと一番異なる点は、競技用に作られた船が使われたのではなく、実際に酒を積んだ商用の船が使われたことです。そのうち酒樽を積むものを特に「樽廻船」と呼ぶようになりました。

樽廻船

今津地域の歴史・魅力2

住民から愛される守り神が鎮座する“今津”

時代の潮流とともに今津のまちは大きな変革を迫られてきました。まちの様相が大きく変わる中でも、今津の守り神である福應神社を中心に、人々の結びつきや文化が大切にされてきました。


神応神社

福應神社(福応神社)

人々から慕われる今津の守り神

今津の浦に神霊が降臨し、浦人たちが浄地を勧請して奉斎したのが始まりと伝えられています。歴史と格式に比べて規模の小さな神社ですが、このような姿になったのは戦後のことで、かつては今よりはるかに広い敷地を持つ大きな神社でした。
神社の社殿は、1945年(昭和20年)8月の空襲で焼失、神社再建の話が持ち上がった時、戦災復興にあたって区画整理が実施され、元の敷地の大部分が道路用地として収用されたため、1950年(昭和25年)に隣接地に移転、1953年(昭和28年)に再建されることとなりました。その後、名神高速道路と国道43号線との接続工事にかかるため、再び移転、1966年(昭和41年)現在の社殿が竣工しました。
敷地移転や社殿の再建を繰り返すことになりましたが、今も今津の守り神として人々から慕われ、毎年夏祭りと秋祭りが開催され、御神輿や舟だんじりの巡行で大変な賑わいを見せています。また、福の神として信仰を集め、西宮神社・越木岩神社とともに「三福神」と称されています。


今津砲台跡

今津の危機を回避、未使用のまま役目を終えた砲台

今津の海浜部に砲台が築かれたのは、江戸時代末期のことでした。当時、江戸幕府は度重なる外国船の来航に不安を感じ、沿岸防備のため、勝海舟が大阪湾岸に多くの砲台をつくりました。今津では港の入口東側におかれました。
砂地に建てるため1,000本を超える松杭を打ち込み、その上に、瀬戸内海中部の島々から運んだ花崗を積み上げました。通常の2倍の賃金で熟練工を集め、突貫工事で完成を急ぎましたが、あしかけ4年を要する難工事となりました。砲台の大きさは直径10数メートル、高さ10メートルから12メートルで、二層目の砲眼からは、大砲で四方を狙うことができました。
砲台は1915年(大正4年)、民間に払い下げられ、石材利用のために取り壊されました。現在の石碑はその残石から出来ており、阪神淡路大震災以前には福應神社に設置されていました。

今津砲台跡

今津地域の歴史・魅力3

町人が築いた文化の町“今津”

今津のまちづくりは、今も昔も町人(企業)に支えられてきました。今の今津連合福祉会と地域企業との関係にもその文化が根付いています。そんな今津のまちには、心意気を感じる町人文化や“今津のシンボル”である多くの歴史的建造物が今もたくさん残っています。

大関今津灯台

大関今津灯台

~未来を灯らす酒造商人の心意気~

丹波地方で採れる酒造りに適した米、六甲山からの伏流水(宮水)に恵まれ、江戸への輸送に便利な港であったことから、今津郷は日本有数の酒どころとして栄えてきました。
1824年(文政7年)酒造家の長部家(現在の大関)の5代目長部長兵衛は、樽廻船や漁船の海路安全を願い、私費を投じて「大関今津灯台」を建設しました。民間が設置した唯一の現役で機能を果たす灯台で、今津のまちの明日を照らす希望のシンボルです。


六角堂

~現存する洋風最古の建物~

1882年(明治15年)に今津小学校の独立学舎として建てられました。この時代には珍しく、洋風な近代的な建築で、正面玄関上の六角形の塔屋が当時の人々の目を驚かせました。
京都から著名な学者を招く等して学問を奨励し、今津は古くから教育熱心な土地柄であったことが窺えます。
兵庫県下で現存する洋風校舎の中では、最古の貴重な建物です。現在も一部が小学校の教室として利用されています。

六角堂

今津大観楼跡

今津大観楼跡

~古くから教育熱心な土地柄だった!!~

今津大観楼は、江戸時代中期、里人たちが学ぶ郷学所として今津の酒造家飯田桂山によって設立されました。この場所からは「大観」という名が示すように、遠く和歌山から四国地方まで見渡すことができ、今津学壇の中心となりました。また、京都から著名な学者を招き、教えを請うたと言われ、この好学の気風は後世まで受け継がれ江戸時代を通じて衰えることはありませんでした。
当時、風光明媚であったであろう跡地には、史跡説明板が設置されています。


今津地域の歴史・魅力4

団結のまち“今津”

時代の流れの中で社会が変わると共に今津のまちにも変化が訪れました。そんな中、今津の先人たちは、みんなで団結してまちの変化や問題に立ち向かい、まちを守ってきました。


今津連合福祉会結成の経緯

たくさんの団体が団結したカタチ

今津地区に福祉会がつくられたのは西宮市の中でも、最も早かったといわれています。戦時中の町内会が解散した跡、今津、津門が連合で福祉会をつくり、地域全体の福祉向上を図ったのがその始まりです。
戦後に今津福祉会だけで独立し、安全安心で明るく住みよいまちづくりをめざして活動してきました。
当時の今津福祉会は津門川町、西住江町、東住江町、西水波、中水波、東水波、社前二葉、今津出在家、大東町、巽町、北久寿川、中久寿川、南久寿川、高潮町、洲鳥町、網引町の16単位で結成されました。その後、1967年(昭和42年)の「し尿投入口問題」を契機に、今津連合福祉会を結成し、今津地区の環境衛生協議会、防犯協会、民生委員、保護司、青少年愛護協議会、地区体育振興会、消防団、PTA、婦人会、老人クラブ、子ども会、小中学校、企業等の様々な地域団体が網目のように連携して、地域力の向上を図ってきました。
現在では、当時以上の多くの団体が協力する組織体制が築かれており、これらの団体が協力して毎年新年会や体育大会、盆踊り等の大きな行事を行っています。これこそが「今津は団結している」といわれる所以です。

し尿投入口問題

~まさしく団結、ここにあり~

1967年(昭和42年)6月23日、西宮市は「し尿投入口」を今津地域に設置することを発表しました。
当時、今津には「塵芥処理場」があり、その上さらに「し尿投入口」の設置となれば、今津地域の環境衛生上ゆゆしき問題であるとして、断固反対を掲げ、反対同盟が結成されました。
その反対同盟結成の迅速さ、反対運動の巧妙さが素晴らしかったといわれています。23日夜には地域住民約百人が集まり反対同盟を結成、24日には反対のビラが各戸に配られ、署名運動に発展しました。
その後26日には、反対同盟400人が市役所に詰めかけ、代表20人が反対決議文、10,000人の署名を添えた陳情書を市長に手渡しました。その後、議論が幾度も繰り返された結果、し尿投入所を浜松原の中州につくる案は撤回しないが、1977年(昭和52年)3月31日限りで閉鎖し、その後適当な場所に移転するという案が発表されました。建設される事にはなりましたが、期間限定的な条件可決を勝ち取りました。まさに団結のまち今津を象徴する出来事でした。

し尿投入口問題
朝日新聞1967年 昭和42年6月26日の記事

湾岸道路公害対策委員会
阪神高速道路湾岸道路 西宮大橋の架橋の様子

湾岸道路公害対策委員会

~経済成長と団結のまち今津~

この委員会は、阪神高速道路湾岸道路の建設に際して、西宮市や阪神道路公団(現、阪神高速道路株式会社)に今後工事の進展により予想される騒音や振動の軽減、工事時間の厳守等をきちんと守ってもらうために立ち上げました。
国道43号線以南、久寿川以西の各福祉会・自治会長で構成されており、海から工事視察や阪神道路公団や工事業者との会合に出席する等、活発に活動していました。
結果、1990年(平成2年)5月に西宮市と阪神道路公団への申し入れにより、当時の梅谷今津連合会長と八木西宮市長との間で全面的に地域理解を示した「甲子園浜埋立地に建設する兵庫県道高速湾岸線の工事に関する協定」を締結することができました。
湾岸道路建設後は、埋立地への企業進出や、阪神淡路大震災時の瓦礫搬入の公害対策等、様々な今津地域の問題に取り組んできました。その後、湾岸道路や震災復興も一段落したため、今津全体の環境問題を考える委員会に発展したほうが良いとの考えで、2002年(平成14年)に現在の「今津地区環境問題委員会」に名称を変更し、現在に至っています。

「今津地域の歴史・魅力」参考資料
・「今津物語(復刻版)」今津連合福祉会 2005年(平成17年)11月
・「酒都遊観記」飯田寿作・浅田柳一 1974年(昭和49年)
・大関今津灯台スペシャルサイト(ホームページ:http://www.ozeki.co.jp/imazutoudai/
今津浜から甲子園浜を望む